中田英寿選手との出会い


 突然の社長からの呼び出しであった。


 当時サッカーから離れ、畑ちがいの建築の営業をしていた私は、急遽会社へ

戻り、何が何だか訳の分からないまま、社長室に向かった。

 秘書課に取り次いでもらい、多忙な社長への面談は2分間ということで、社長

室へ入った。

 そこで社長から言い渡されたのは、「サッカーへ戻れ!」ということであった。

 私はようやく建築の営業にも慣れ、これからという時期であったので、その

社長命令に背き、「このまま営業をさせて欲しい。」と、お願いをした。

 しかし社長の考えは固く、結局、後のサッカーJリーグの“ベルマーレ平塚

(現:湘南ベルマーレ)”というプロサッカーチーム(会社)へ出向すること

となった。


 そこで、中田英寿選手(以下、中田選手)に出会うこととなる。

 私が出向したその3ヵ月後に、中田選手が入部(入社)してきたのである。

 ベルマーレ平塚の関係者から、中田選手のサッカーでの素晴らしさは聞き及ん

でいた。しかし、聞きしに勝る選手であった。というよりは、選手としてもその

スケールの大きさは言うに及ばず、一個人としても到底18歳の高校を卒業したば

かりの若者とは思えない、卓越した見識を持った人間であった。

 この中田選手の活躍もあり、ベルマーレ平塚は黄金期に入っていく。


 中田選手は高校在籍中から、将来イタリアへサッカー留学することを考えてい

た。すなわち、セリエAへ行くことである。ベルマーレ平塚へ来てすぐ、もちろ

ん選手生活をしながらイタリア語の家庭教師を自費で雇い、1年間語学の勉強を

していた。セリエAへ移籍した時には、既に記者の取材に対し、現地(イタリア)

語で応じていた事は、周知のとおりである。


 ある日、中田選手が突然、私に会いたいと言ってきた。私は「何かあるな?」

と即座に感じ、非常に厳しい話し合いになることは覚悟したが、彼と話し合う

ことは嫌ではなかった。否、彼と話し合うことを望んでいたのが真実であった。

それは、彼の話はチームの為になる建設的な話になるであろうからである。

 その時もそうであった。中田選手はいろいろなことを話したが、それはす

べて私も同感であり、クラブ(会社)として、そうすべきことばかりであった。

 私は彼の話に傾聴し、その内容を3つに大別した。

 1つ目は、「それは、すぐに実行する。」

 2つ目は、「それを実行するためには、1年くらい要する(時間がかかる)。」

 3つ目は、「実行しなければならないが、今から取り組んでも10年くらいの

      時間がかかる。」

 この中の1つ目の項目については、彼と約束をし、すぐに実行した。

私の約束を守る姿勢に彼は納得し、試合に、練習に、全力を出し切り頑張って

くれた。


 中田選手はサッカーは言うに及ばず、生活志向においても他の選手とは一味

も二味も違った考えを持ち、それを実行した。18歳の少年であったが、確固

たる将来像を持ち、それを一歩一歩確実に自分のものにしていった。


 中田選手には、次のようなエピソードがある。

 選手はプロであり、一年ごとに契約更改が行なわれる。

 当時、選手は40名前後いた。会社側として契約交渉は私一人であり、その

期間は2ヶ月要した。好き勝手に要求する選手との契約更改を終える頃には、

心身ともに疲れ、何も考えたくないという放心状態に陥る。

 中田選手以外の選手はほとんどが年棒(お金)の話し合いに終始するが、彼

の場合、前述したとおり“チームのあるべき姿”“どうすれば勝利(優勝)

することができるのか”というような自分個人の話でなく、チーム全体の話

になるのである。まるでチームの責任者(経営者)である。

 チーム全体の話に終始し、肝心な契約更改、すなわち年棒(お金)の話に

ならないで交渉が終わりそうになり、慌てて私から「年棒はいくらにしよう

か?」と切り出す始末であった。

 「中村さん、適当に金額を書いておいて下さい。」ということで、こちら

から「○○○円で。」と言うほど、あまり金銭にこだわらない選手であった。

 チームを良くし、強くなる環境づくりに終始し、やりがいを求め、全力を

傾注できる環境を求める選手であった。


 私は中田選手に“厳しいプロ”という世界の一面を垣間見た気がした。

 私はサッカーを通じて、素晴らしい一人の人間に会うことができたことを

今でも誇りに思う。
 
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