サッカー人生

“サッカ”ーとの巡り会い

“勤ちゃん”は、府中町の隣の町、船越小学校の卒業生である。

船越小6年生の時の担任が、府中町に住んでおられた。

恩師 仁保渡先生である。

仁保先生の命令により、無理やり広島市内の私学修道学園中等部へ

受験することになった。


“勤ちゃん”宅は10人家族で、食べることで精一杯の貧乏生活を送っていた。

小学6年ともなれば、家庭の生活状況は薄々感じとれる年齢である。

“勤ちゃん”は例え間違って受験に受かっても、経済的に進学できっこないと思っていた。

間違いは起こるものである。受験に受かったのである。

“勤ちゃん”は両親に、私学修道学園へ進学させて欲しいとはとても言えなかった。

受かったことを知った母親は、「ワシが何とかしたる。修道へ行け!」
(当時の女性の中には自分のことを“ワシ”と言う人もいた。)

と、言ってくれた。


その修道学園で“サッカー”と巡り会うことになる。

船越小時代は、ドッジボールといってボールは手で扱うものと教えられ

“勤ちゃん”自身もそう思い込んでいた。

それが中学校では手を使わないで、足で蹴っているのである。

驚くことこの上ない。

しかし実際にボールを蹴ってみると、それはそれは面白いのである。

“勤ちゃん”はすぐに、取り憑かれたように夢中になった。

既述したように、家庭の経済状況でとても大学進学は望めなかった。

そこで誘われるまま、サッカー部へ入った。中学2年の時である。

“勤ちゃん”のその後の運命を決めた、劇的な瞬間であった。


勉強しないで、修道中・高校を通じて5年間“サッカー”漬けの毎日であり

頭の中は、いかにサッカーが上手くなるか それのみであった。

 以上が“勤ちゃん”と“サッカー”との巡り会いの一部始終である。



東洋工業サッカークラブ時代 白い服が勤ちゃんです。


S41.5 早慶サッカーナイター定期戦 真ん中が勤ちゃん



“オソマツ”話

兎にも角にも、サッカーに没頭した毎日であった。

中学校入学時に上位であった成績も、あっという間に下がり

高校卒業時には、下から数えた方が早い状況になってしまっていた。

サッカーの技術について言えば、自分は恰も名選手であるかのように思って

入部したわけである。

しかし、他の選手(生徒)から見ると、まったくの素人の域であったようだ。

そこで、先輩が私に付けたアダナが“オソマツ”であった。

負けず嫌いな私は、チームメイトの2倍は練習した。

“オソマツ”な私にとって、チームメイト以上に練習する以外に

うまくなる術は無かった。

“オソマツ”話に、こんなエピソードがある。

高校3年生の時、我がチームは全国高校選手権大会に出場し、優勝した。

高校生レベルでの日本一になったわけである。

表彰の時に、この大会の優秀選手16名が発表され

その中に“中村”という名前があった。

大会が終了し、帰路の電車の中で私は“オソマツ”を命名した先輩と

隣り合わせになった。吊り革に掴まりながら、

先輩曰く「オソマツ!今大会の優秀選手16名の中に“中村”という

名前があったが、“アレ”は誰だ?」

私は「私ですよ。」と、言った。

先輩は「嘘を言うな、オソマツ!」

それほど、サッカーを始めた時と高校を卒業する時では、

格段の差が生じていたのであった。

のちに、早稲田大学に進学した時には

“日の丸”

胸に付けるまでになっていた。



中田英寿選手との出会い
中田英寿選手との出会い2
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